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外国語学習の記録的な

エミリア・パルド・バサン「金の箱」個人訳

 

前書き

 エミリア・パルド・バサン Emilia Pardo Bazán y de la Rúa-Figueroa(1851-1921)の短編小説集Cuentos de amorの中から"La caja de oro(金の箱)"の全訳をお届けします。

 エミリア・パルド・バサンはスペインの作家。貴族の娘として生まれ、父の膨大な蔵書と社交会での交流によって、殆ど独学で幅広い教養を身につけます。1868年に16歳で結婚してからまずはエッセイの分野で文名を高め、1879年に初めての小説Pascual López: autobiografía de un estudiante de medicinaを発表、小説家としても高い評価を受けることになります。彼女の活躍の分野は多岐に渡り、ジャーナリスト、詩人、劇作家、翻訳者、編集者、さらには料理本の著者、スペイン初の女性の正教授としての顔も持ちます。ヨーロッパの文学者との交流も積極的に行い、ユーゴーやゾラ、ゴングールといった作家とも面識があり、当時大陸で最新の文学潮流であった自然主義をスペインに紹介したのも彼女でした。また、女性の教育について積極的に発言を行い、そのために彼女を近代スペイン最初の著名なフェミニストであると評価することもあるようです。

 殆ど邦訳のない作家ですが、代表作のLos pazos de Ulloa(ウリョーアの館)(1886-87)は現代企画室から翻訳が出ています。2016年、遅すぎる紹介となってしまいましたが、あまり反響がなかったのか、続編La madre narutaleza(1887)の訳書公刊の予定は未だなし。作品の高い質の割に(そして近年のフェミニズム運動の高まりの割に)不当なまでの注目度の低さである、と言わざるを得ません。もっとも彼女の場合、反ユダヤ主義を公言し、さらにはロンブローゾの犯罪生物学を信奉した過激なレイシストという側面もあったので、それが邪魔をしている可能性もあるのかもしれません。

(以上の著者情報の一部は英語版ウィキペディアを参照した)

 今回訳した"La caja de oro"は彼女が残した650以上ものショートストーリーの一つで、1898年に公刊されたCuentos de amorに収録されているものです。ページ数にして2〜3頁、パラグラフも10程度という長さであり、さらにはその簡潔で明白なテーマと、最後の数行で訪れる意外なオチという点でも、現代のショートショートの先駆けと言っていいような小説です。少なくとも長さと面白さの点で、スペイン語学習者にとっては絶好の教材であると思われます。是非とも原文と対照しながら、スペイン語の辞書を片手に読み進んでいただければと思います。

 原文はProject Gutenbergを参照しました(作品ページ)。訳者はスペイン語に関しては完全な独学で、教師のもとで学んだことも無ければ、検定を受けたこともありません。また翻訳に関しても専門的な訓練を受けたこともなく、従って以下の訳文は単なる趣味的な産物であることを了承いただきたく存じます。可能な範囲では誤訳を避けるように最大限心がけましたが、学問的、専門的な吟味に耐えられるものではまったくありません。そもそもGutenbergが底本である、というところからその点に関しては察していただければと存じます。著作権が消失し、扱いが自由になった作品については、広い世界にはこのような趣味訳が存在しても許されるだろうと思い、投稿したまでのことです。基本的には学部生の演習課題で提出される程度(かそれ以下)の水準であろうと思います。読む上ではこれらの点をご了解ください。

 

エミリア・パルド・バサン「金の箱」

 それはいつでも机の上の見える場所、彼女の手の届くところにあって、きれいな手が時々すべすべした蓋の感触を楽しんでいた。だけどその、金の線状細工と繊細なエナメル加工に美しく彩られた箱の中に、一体何が閉じ込められているのか、僕は知ることができなかった。僕にはその玩具を無理やりに奪い取るつもりもなかったし、持ち主の方でもすぐさま神経質に部屋着のポケットや、あるいはもっとプライベートな場所、懐の中などに隠してしまって、誰にも触れられないようにしてしまったからだ。

 持ち主が隠そうとすればするほど、箱の中身を知りたいという思いは強くなった。なんて腹立たしく、魅惑的な謎だろう! あの芸術的な容れ物の中には、いったい何が? チョコレート? おしろい? 香水? そんな害のないものだったら、どうして隠す必要なんてある? 肖像画や押し花、あるいは髪の毛とか(訳注:この時代のヨーロッパでは恋人の髪の毛をロケットペンダントなどに保管する習慣があった)? ありえない、だってそうしたものは、もっと肌身離さず持っているか、もっと遠くに保管しておくかするだろう。たとえば心臓にもたれかけさせておくとか、あるいはがっしりとした鍵のかかる書き物机にでもしまっておくか……そうだ、あの金の箱に眠っているのは、愛を物語る面影なんかじゃない。幻想の青色、幻影の薔薇色でエナメル加工され、緑の山査子で渦巻模様が装飾された、あの箱に眠っているのは。

 物語の筋を追うことができず、小説のこともわからないような人たちは、僕のことを好きなように呼んでくれて構わない。遠慮がなく、気まぐれで、おまけにおせっかいで図々しい詮索屋。お好みならどうぞご勝手に。確かなことは、僕はあの箱にすっかりぼうっとなってしまったということだ。そして僕には真っ当な手段というものがなかった。だから抜け道を行くような、大胆な手段を僕は用いた……箱の持ち主にすっかり心を奪われているふりをしたのだ。本当は金の箱に心を奪われているだけだったのに。僕は一人の女性に言い寄ったが、本当は一つの秘密に言い寄っていた。幸福を追いかけるようにみせかけて、好奇心を満たそうとしているだけだった……そして運命は僕に勝利を与えた。もし勝利が僕にとって重要だったのなら、与えることを拒んでいたかもれない勝利を……だから僕は勝利と同時に得ることになった。良心の呵責をも。

 僕の勝利の後、彼女は従順な心が引き渡し得るすべてのものを僕に引き渡した。けれどもあの箱の謎だけは強情に守り続け、わずかな隙も見せることがなかった。僕はあらゆる手段に訴えた。媚びへつらって見せたかと思えば、突然憂鬱で遠慮がちな態度に出た。議論をふっかけたと思えば、冗談を言って見せた。愛情豊かな策略を尽くしたかと思えば、もう愛していないと仄めかして脅迫した。懇願したかと思えば不機嫌な顔を見せた。どれ一つとして効き目はなかった。箱の持ち主は頑なに中身を知られることを拒み続けた。あたかもそのかわいらしいものの中に、犯罪の証拠でも隠しているかのように。

 僕は力尽くで迫るのも、田舎者のような粗暴な振る舞いをするのも嫌だった。それに、僕自身の愛情も高まりつつあったので(普通愛情が持つような甘さも深さも欠いてはいたが)、愛を、この美しい人の愛だけを、僕は謎を解く鍵にしようとしたのだった。力強く訴えながら、自分自身は抑え込んで、あらゆる手段を僕は用いた。規則の中でインスピレーションを形にする芸術家のように、僕の技巧は感傷喜劇の俳優もかくやという域にまで達し、そしてとうとう彼女の耳を僕の言葉へと向けさせることができたのだった。ある日のこと、ちょっとばかり嘘の涙を流して僕の思いを証明して見せてから、僕は僕が抱いていた箱の中のライバルの幻影を、今でも彼女の心を僕と争う何者かの存在への僕の疑念を、彼女に示して説き伏せた。そして僕は見たのだ。彼女が突然表情を変えて、震え、青ざめ、叫び声を上げながら、両腕を僕の首に投げ出したのを。こうして彼女の誠実さは、僕を恥じ入らせることになったのである。

「あなたのためなら何でもします! お望みなら……その通りに。どうぞ、今すぐにでも中身をお見せします」

 彼女は留め金のばねを押し付けた。箱の蓋が持ち上がり、底にかすかに見えたのは小さな球状のもので、それはグリーンピースほどの大きさで、白っぽく、乾燥していた。何なのかわからず見つめていると、彼女はうめき声を抑えながら厳かに言った。

「この錠剤は私の村の、奇跡のような治療法を編み出した治療師から買ったものです。随分高いお金を払いましたが、具合の悪い時に一錠飲めば、すっかり良くなることを彼は保証してくれました。ただし彼は一つだけ注意しました。もしこの薬を身から遠ざけたり、誰かに見せてしまったら、薬は効能を失ってしまうのです。迷信だとおっしゃりたいなら、お好きなように。けれどもはっきりしているのは、私が治療師の処方通りに薬を飲んで、その恩恵を受けてきたということです。ずっと苦しんできた不調(私はひどく虚弱な体質なのです)がなくなったばかりか、今日まで健康を楽しんできたぐらいなんです。あなたはどうしても知りたいのだとおっしゃいました……どうぞ、そうしてください……私にとって、あなたは健康よりも命よりも大切なものですから。私の万能薬はもう無くなりました。もうこの薬は効き目を失ってしまいました。いいえ、あなたが薬になってください。私をたくさん愛してください、そうすれば私は生き続けることでしょう」

 僕は凍りついた。僕の望みは叶ったが、箱の中に見つけたものは、ただ迷信じみた魔法の残骸と、持ち主に対する罪の意識だけだった。彼女がついには僕を愛するように、僕は仕組んでしまったのだ。僕の好奇心は、楽園追放をもたらしたあの好奇心から、現代科学のそれ(忌まわしさでは始めのに勝るとも劣らない)に至るまでのすべての好奇心と同じように、それ自身が負うべき罪と罰にまでたどり着いたわけだった。箱の中など見なければよかった、とその時思った。後悔があまりに大きくて、僕は自分が恋に落ちたのだと考えた。咽び泣く女の足元に跪き、どもりどもり僕は言った。

「怖がらないで……そんなものは全部嘘、卑劣な詐欺だよ……治療師は嘘をついたんだ……君は生きる、千年だって生きるよ……薬が効き目をなくしたから、何だって? 一緒に村に行って、新しいのを買おう……全財産だって、その治療師にくれてやるよ」

 彼女は私を抱きしめ、苦悶の中に微笑みを浮かべながら、耳元でたどたどしくこう告げた。

「その治療師は死にました」

 その時から、箱はもう隠されることもなければ目に入ることもなく、戸棚の隅で青いビロード地に覆われて埃を被っていた。持ち主の方は窶れて生気を失い、どんな治療も効き目のない、衰弱をもたらす病のあらゆる症状を見せていた。ここまで読んできてもまだ僕のことを怪物と思わない人なら、僕が枕元につきっきりになり、慈悲と献身で以って彼女の面倒を見たことを想像されることだろう。慈悲と献身。僕がそう言うのは、僕が意図せずして死刑執行人となってしまった、この弱きもののため捧げられるものが、他には何もなかったからだ。彼女は死んでいった。おそらくは魂焦がす情熱のゆえに。おそらくは不安のために。しかしすべては僕の過ちである。僕は彼女に償いをすることはできなかった。僕が奪った命の償いに、僕は差し出すことができなかったのだ。神が僕に贈りたもうた、無条件にして絶対的なものを。それでも僕は彼女を幸せにするため、それができるかのように振る舞っていたが、彼女はゆっくりと、しかしはっきりと、僕の無関心と密かな退屈とを見抜き、ますます墓の方へと傾いて行くのだった。

 そして彼女はとうとうその中へと落ちて行った。科学の力も僕の介護も、彼女を救うことはできなかった。彼女の愛情が僕に遺そうとした思い出のすべてから、僕はただ金の箱だけを拾い出した。箱にはまだあの錠剤が残っていた。ある日のこと、僕は友人の化学者にその錠剤を分析してもらうことを思いついた。僕の呪われた好奇心は、まだ満足していなかったのだ。分析の結果を尋ねると、化学者は笑い出した。

「もうおわかりでしょう」と彼は言った。「ただのパン屑ですよ。その治療師は(本当、賢いやつですよ!)誰にも見せないようにと命令したんですよね……そりゃそうですよ、そうすれば誰も分析なんてしようと思いませんからね。この忌々しい分析というやつは、いやはや、何もかもつまらなくしてしまうものですね!」